測定・評価

これからの野球指導者はスポーツ科学をどう活用すべきか?

スポーツに科学がなぜ必要なのか?

科学というものは、あることをいう場合に、それがほんとうか、ほんとうでないかをいう学問である。つまり、いろいろな人が同じことを調べてみて、それがいつでも同じ結果になる場合に、「ほんとうである」といえるのである
ー中谷宇吉郎「科学の方法」岩波新書、1958.

本当かどうかを確かめるには、対象となる現象を繰り返して調べる必要があります。再現が不可能となれば、繰り返し調べることができないので、本当かどうかを調べることができません。

ある高校球児が冬にウエイトレーニングを取り入れ、打球速度がトレーニング前よりも上がったとします。この事実から「ウエイトトレーニングをしたから打球速度が上がった」と断言してしまう気もわかりますが、この結果だけでは不十分です。
毎日何かしら練習していれば、ほっといても打球速度は上がるかもしれません。また、成長期の子どもであれば、練習をしていなくても上がる可能性はあります。つまり、トレーニングをしなかった場合と比較しなければ、効果があるかどうかはわからないのです。
しかし、この高校球児は一度トレーニングをしてしまったからには、トレーニングをしていない元の状態に戻ることはできません。繰り返して調べることができないのです。

スポーツ科学を使って本当かどうかを検証する

この再現可能性の問題を科学ではどう扱っているかというと、まずいろいろな状況や環境の選手をランダムに抽出し、2つのグループに分けます。ひとつのグループにはトレーニングをさせ、もう一方には普段通りの練習をしてもらいます。それぞれのグループにどのような打球速度の変化があったのか比較することで効果を検証します。

このように本当かどうかを確かめるには科学の方法に則ったやり方で検証しなくてはなりません。でも、人を対象とした研究は、同じ状況を再現することが不可能であるため、断言ができない部分が多く、結果が限定的でどうしても回りくどくなってしまうのです。

「走り込みをしたらからだにキレが出た」とプロ野球で3000本以上の安打を放った打者が自身のコンディショニングについて語っていたとします。「これだけの成績の選手が言っていることなのだから真実に違いない」と思ってしまいがちです。でも、先ほどの高校球児と同じように再現可能な状況を設定できていませんので、このような主観的表現は、検証そのものができません。ですから、このプロ野球選手の言っていることは本当かもしれないし、実はデタラメかもしれないのです。

感覚をどのように翻訳するか

アスリートの感覚的な表現が検証できない理由は再現可能性の有無の問題だけではありません。「走り込み」も「キレ」もあいまいな表現で、定義が人によって異なります。だから正しさを確かめようがありません。主観的な表現をみんながわかる形式、つまり数値を使って検証できるように「翻訳」しないと、効果は検証できないのです。

「走り込み」で言うと「頻度」、「回数」、「強度」というトレーニング科学の観点から、また「キレ」もバイオメカニクスの学問領域に照らして定義しなければ、「走り込み」と「キレ」の因果関係を説明できません。アスリートが言っていることは、経験的には本当かもしれません。しかし、ほんとうに本当なのかを確かめるにはスポーツ科学の言葉を使って「翻訳」する必要があるのです。
参考:野球選手にとって走り込みは必要なのか?投手にとってのスタミナとは

テクノロジーの進歩がもたらす「創造的破壊」

巷に溢れる情報のなかで「ほんとうである」と言えるものは非常に少ないと感じています。今の野球界では情報を伝える側に専門知識の有無は問われません。報道番組を見ていても、政治や経済はその専門家が解説をしているのに対し、スポーツコーナーでは専門的な教育を受けていない元プロ選手が解説者として登場します(すべてとは言いませんが)。
指導者に関しても、本来であれば選手の心身の発達のために、本当のことを教えなくてはなりませんが、自分自身の主観を疑おうともせず、「翻訳」の手段も持たない指導者が多く、歪められた真実が選手に届けられていることが見受けられます。

テクノロジーの進歩によって選手の評価や技術の見える化が進み、野球の真実が解き明かされ始めています。セイバーメトリクスやトラッキングシステムの登場によって、観察者の主観的な評価や目視による観察は機械に取って代わるでしょう。また、アナリストやデータコーディネーターのような新たな雇用も生まれていています。今後、解説者や指導者など情報の伝え手の役割は激変するでしょう。野球の世界にも「創造的破壊」が起こっていることに気がつかなくてはなりません。
参考:野球のデータ分析者に求められるスキルとは何か?